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Thursday, October 6, 2011

initial appearance of the translation "Chunhyangjeon" in Japan by Kenji Nishioka

http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo13_2/1302_nishioka.pdf

半井桃水 なからいとうすい



福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.13,No.2,15―33
日本における『春香伝』翻訳の初期様相
―桃水野史訳『鶏林情話春香伝』を対象として―
西岡健治
要旨桃水野史訳『鶏林情話春香伝』は翻訳において、大きく二つの操作が行われている。一つは「削除」「縮小」で、これらは翻訳紹介上、日本人にマイナスだと考えられた部分である。他は「挿入」「改変」で、前者とは反対に、新たに書き加えなどをすることがプラスとなると考えられた部分である。「削除」「縮小」は、同類表現の反復や登場人物の行動規範からの逸脱部分で行われ、ストーリーの単純化のためや、勧善懲悪小説としての枠組を鮮明にするために行われた。しかし、これによって、韓国的な「家」の様子や「庭」、韓国独自の詩歌、一筋縄ではいかない下人たちの個性が失われたように思う。挿入」と改変」では、文化的障壁を乗り越えるためや、不合理な内容を改変することで、日本人に一層分かりやすい作品にしている。また、掛詞の使用に見られるように、韓国の古典文を当時の文体にまで創り上げ、削除・縮小で失ったものを除いても、春香伝の魂を失わない価値ある翻訳となっている。
キーワード鶏林情話春香伝 削除 縮 小挿入 改変

はじめに
韓国古典小説の代表作とされる『春香伝』は、海外でも比較的早くから関心がもたれ翻訳が行われて来た。なかでも、最も早く翻訳が行われたのが日本(1882)である。続いて、米国人宣教師H.N.Allenによって英訳され(1889)、J.H.Rosnyによって仏訳された(1892)。
今日では、すでに7カ国.以上の外国語で翻訳されていると考えられるが、初期の翻訳は今日一般に行われている翻訳とは異なっていた。どうも「翻訳」に対する考え方が決まっておらず.、多様な試みがなされたのではないかと考えられる。例えば、前記仏訳では、春香に会うために李道令は媒婆に頼み.、そのとき李道令は驚くなかれ女装する。また、獄中の春香を訪ねた李道令は春香と抱擁しキスをしている。また、桃水野史訳では、春香が○○する場面はなく、それに代わって「曲水の宴」になっている。こうした初期の翻訳様相は、外来文化の土着化に伴う変容に通じるものがあると考えられる。
研究対象である『鶏林情話春香伝』は、半井桃水.

(以下、桃水と略称)により「桃水野史」の名で『大阪朝日新聞』紙上.に連載された。ところで、この翻訳の原典が『京板三十張本春香伝』であることは、すでに筆者が明らかにしたところである.

が、最近、韓国の日本文学研究者と国文学研究者の共同作業によっても確認された.

。これにより原典がほぼ確定したと考えられ、『京板三十張本』と『鶏林情話春香伝』(以下、『京板三十』と『鶏林情話』と略称する)の比較が可能になった。
両者を比較してみると、大きく二つに分けることができる。一つは「削除」「縮小」で、他は「挿入」「改変」である。前者は、桃水が翻訳紹介する上でマイナス要因だと考えたものであり、後者はプラス要因と考えたものである。
以下、本稿は『京板三十』から削除・縮小.挿入・改変などが、どのように行われたかを明らかにしようとするものである。それによって、韓国の古典小説が、日本の読者に受け入れられやすいように、桃水がどのように努力をしたかが明らかになるであろう。と同時に、日本人読者に受け入れられやすく変形したため失ったものもあるように思う。
(注:Aは原典『京板三十』、Bは『鶏林情話』。また、後尾に付けた数字は『京板三十』の張数。1A、1Bは1張目A面、1張目B面の意。第○回は、『鶏林情話』の第○回の意である。)

Ⅰ.『京板三十』より削除された部分
まず、桃水がマイナス要因だとして原典から削除した部分を見てみると、以下のように四つに分類することができる。これらはなぜ削除されたのであろうか。以下、個々について考えてみることにする。
. 春香の家の様子や飾られた画、家具など
最も大量に削除されている部分が、春香の家を李道令が初めて訪ねたときに見た「春香の家の様子」や「壁に掛けられた画」や「庭の様子」や「家具類」、「出された料理」などの詳細な描写である。パンソリでは、唱者が歌唱力を発揮するところであるが、散文としても韓国的情緒が詰まっている場面である。しかし、こうした微細な描写は当時の日本の新聞読者には必要ないと考えたためであろうか、あるいは翻訳が困難なためであったろうか、桃水はこの部分を大量に削除している。
『京板三十』から削除された上記五場面から、「壁に掛けられた画」と「庭の様子」の二場面だけを紙面の関係上見てみることにする。
A. [壁に掛けられた画]
書画付壁(かべにはかけえ)、立春書(はしらにはやくよけ)、分明(あきらか)なり。東壁(とうへき)には、晋処士(しんのしょし)陶淵明、彭沢令(ぼうたくのちょうかん)を拒わり、秋江に舟を浮かべ、清風(そよかぜ)
ろ明月(つきあかきよ)、櫓にまかせ、陽へと、向う景(さま)、描かれおり、西壁には、三国風塵擾乱時(さんごくあらそうせんらんのよ)、漢宗室(かんのおうそん)劉玄徳、赤兎馬(せきとば)を馳せ、南陽(なんようの)草堂(いおり)へ、風雪中(ふぶくなか)、臥龍(こうめい)先生を訪わんと、至誠(まごころ)もて行く景状(さま)、描かれおり、南壁(なんへき)には、……(中略)……、北壁には、……(中略)……、台所(プオク)の扉には、「門神戸霊呵禁不祥」とあり、庫(くら)の門には、「開門万福来所之黄金出」とあり、前後左右には、……(中略)……、中門には、……(中略)……、大門には、「国泰(くにやすらかに)民安(たみゆたかにして)家給(いえみちたりて)人足(ひとまんぞく)」なり。尉遅敬徳(うつき・けいとく)、陳叔宝(ちん・しゅくほう)を、あざやかに描きて貼り、「春到門前増富貴(はるもんぜんにいたればふうきます)」を、門の上に、横に貼り、」(7A~7B)

長いので途中を省略したが、東・西・南・北それぞれに故事に基づく絵が掛けられ、門の前後左右などには文字が掛けられている。春香の豊かな暮らしぶりと教養の高さを物語るものである。だが、これは決して庶民の住む普通の家ではない。貴族である両班の住む家を描写したものである。それで、桃水は削除したのだろうか。
次に、「庭の様子」を見てみよう。

B. [庭の様子]

後ろの東山(うらやま)には、山亭(あずまや)ありて、前の池には、みごとなる蓮池(はすいけ)ありて、熟石(かこうしたいし)もて、面を整え、層層階(きざはし)を積み上げ、双々(つがい)の水鳥(ピオリ)、ミサゴ、平鉢(テジョプ)ほどの金魚、水面(みなも)に浮かび、此方(こちら)に波立て、数多(あまた)の花草(はな)咲き、東便(ひがし)に、梅雪白(うすべにぎく)、西に白鶴(しろぎく)、南に紅鶴(べにぎく)、北に金糸烏竹(きんいろまだらだけ)、中央に、黄鶴(こうぎく)がヨップルサ.
、山菊花(あぶらぎく[広辞苑])は、左右に並び、老松(ろうしょう)、盤松(ばんしょう)、月四柱(げっけいじゅ[南原古詞])に、倭躑躅(やまとつつじ)、杜鵑花(つつじ)、ミンドラム.人物一色鳳仙花(すがたよきほうせんか)、倭石榴(やまとざくろ)、水紅花(トゥルチュク)、棕櫚(しゅろ)、牡丹、芍薬、梔子(くちなし)、冬柏(つばき)、丈(たけ)等しき芭蕉の葉に、春梅(しゅんばい)、冬梅(とうばい)、盆桃(はちうえのもも)、葡萄、映山紅(さつきつつじ)、忘憂草(わすれぐさ)、枸杞子(くこのき)は、垂れさがりて、くねくね曲がり、」(7B~8A)

ここでは、「菊」や「竹」や「松」などが多数植えてあるのが注目される。なぜなら、これらの植物は女性の貞節.男性の孤高さ.や忠節を象徴しており、従って春香の貞節を物語るものだからである。しかし、この部分を桃水は削除している。だからと言って、直ちに貞節の否定と考えるのは早計であろう。むしろ、これらの豪華さに注目したい。例えば、「東山(うらやま)には、山亭(あずまや)ありて、前の池には、みごとなる蓮池(はすいけ)ありて」、花々の咲く庭は、決して庶民の家のものではない。春香の庶民性を考慮して削除したのではないかと思われる。そう考えると、ここで削除された「壁に掛けられた画」、「春香の家の様子」、「家具類」、「出された料理」など、すべてが両班貴族のものであることが分かる。

. 登場人物の逸脱部分
登場人物に関して削除された部分を見てみると、Aの「李道令・両班ら」、Bの「春香・月梅ら」、すべてがそれぞれの行動規範から外れた部分が削除されている。それらの部分を次に見てみよう。

A. 李道令・使道・役人らの逸脱部分

まず、李道令であるが、彼は李道令.として2回、李御史として2回削除されている。

①[李道令]「李道令、笑って、曰く、“使道、若き時にも、身を弁えず、酒肆青楼に、通われしやは、知らねども、尻軽女の、尻の匂いを、無数に、嗅ぎ回られしなり。かかること、知り給うとも、お咎めあるはずもなし。そんなことは、心配無用じゃ。”」(5A~5B)これは、使道(地方長官)である父の若い時の

ことを挙げて、父もそうだったからお咎めないと春香を安心させようとしている場面である。しかし、これではまるで不良少年のような言い方である。また、李道令の挙げた使道の行為は、後日「愛民善治せしを、聖上お聞きになり、昇進させて、戸曹判書にご任命なさ」(京板三十・10B)ったという話とつながりにくい。
もう一つの李道令に関する削除場面は、かの有名な「千字文読み」(6A~6B)である。春香を恋するあまり、読むものすべてから「春香」が思い出され、“会いたい、会いたい”と叫ぶ。それを使道が聞いて驚き調査を命ずるが、『詩伝』七月篇を持ち出してうまく逃れるという話である。こうした態度も両班子弟の行動規範から外れているから削除されたのであろう。
次は、削除された李御史を見てみよう。李御史は、李道令が科挙に合格して暗行御史となって以後の呼称である。

②[李御史]「(使道)多くの賞を、順番に渡すとき、李道令、受け取りて見れば、角の取れし古き平盤(まるぼん)に、うどん一皿、餅ひとかけら、あばら肉一切れ、なつめ一個、栗一個、梨一切れを入れ、大名床(めいよのぜん)の如く、与えれば、李道令、心術(いじわるごころ)が働いて、[座ったまま]両足にて、床(ぜん)を蹴り、ひっくり返せば、座中、すべての者、気まずい思いをせしが、李道令、立ち上がり、そのひっくり返りし物を、掻き集め、袖に溜め込み、座上に向って撒きつつ、“ああ、惜しいことをした”と言えば、本官の顔に懸かりしゆえ、本官、顔、引きつらせ、言うに、“正気の沙汰でなし。そも、雲峰が言うことを聞き入れ、かかる恥をかくはめになりたるが、無念じゃ。”」(26B~27A)

これは、使道(長官)誕生宴に無理やり参加して狼藉をはたらき、膳を蹴ってひっくり返し、ちらかった汚物を拾って振り撒き、使道にも掛けている。まさに乱暴狼藉をはたらく場面が削除されている。他に削除された部分は、暗行御史となった李道令が、本人であることを隠して春香に夜伽を命じる場面である。劇的効果から言えば、春香の確固たる貞節を証明する場面であるが、人間としては残酷であると考えたからであろうか。
以上によれば、桃水は、両班子弟に中庸を旨

とすることを期待した感がある。次に、李郎庁、郡守、使令らを見てみよう。①[李郎庁]「(新官、)李郎庁を顧みて、言うことには、相違はなきか”“聞くと見るとに、李郎庁の返事は、耳に掛ければ耳輪、鼻に掛ければ鼻輪にて、新官の気に入るように、合わせたり。」(14B)李郎庁は、一種のトリックスターで道化者である。春香伝では、使道の相談役であるが、所信は持たず、常にのらりくらりと言い逃れをはかる人物である。削除した理由は、こうした否定的官僚は前面に出したくなかったからだろうか。劇的効果からすれば、新官使道の否定的官僚的側面を拡大表現した人物であるのだが。
②[赤義郡守(ウォンニム)たち]「(赤義郡守は)糞をたれ、吏房は気絶し、三班官属は小便たれ、内東軒にても糞たれたれば、郡守(ウォンニム)、ふるえながら言うことには、“怖気づいて、糞たれたるも、この糞にて、我ら滅亡す。”とて、盛んに奔走せしのち」③[軍奴・使令ら]「(春香)金五両を与え、頼むに、“これは、わずかですので断らず、酒の付けのたしにでもして下さい。”と言えば、軍奴ら、断るふりをしながら受け取り、」(以上13B)
④[下級官吏]「官属ども、御史下りとのうわさを聞き、官銭、木布、還上、田結、卜数、巫書の帳尻を合わせるとき、四結は、一チムと六ムシとし、六結は、三チムと十五ムシなり。東倉、西倉、米銭、木布を、手当たりしだいに、官のものとし、吏房、戸房の奴ら、ぐるになって、文書改竄せしを、探り出してのち」(22A~22B)赤城郡守たちは、驚きのあまり、糞を洩らしたり、小便を垂らしたりしている。地方官吏とは言え、役人たる者がこのような姿をさらすことを忌避したのだろうか。④の軍奴・使令らは、春香が渡す賄賂を「断るふりをしながら受け取」っている。役人と賄賂の問題は、当時においても横行していたことが伺える。⑤の下級官吏は、暗行御史が探っているとのうわさを聞き、あわてて帳尻合わせや、文書の改ざんをしている。全く以てけしからん話である。
以上のように、役人に対する否定的表現が削除されていることを考えれば、桃水訳は、行動規範を遵守する本来の役人像を前面に出そうとする意識が原典に比べて強いように思われる。さらに、春香伝で悪役を演じる新官使道の言動が削除されていないことを考慮すれば、桃水は、春香伝を分かりやすい勧善懲悪小説仕立てにしたと考えられる。

B. 春香・房子・月梅らの逸脱部分

次に、春香・房子・月梅など、庶民層に関する削除部分を見てみよう。春香が1カ所、房子が2カ所、月梅は5カ所も削除されている。

①[房子]「ある一美人のする様、不意に見て、心神、恍惚とし、急ぎ房子を呼びて、言うことには、“彼処のあのものは、何なるや”房子、申し上げるに、“何処に、何が見えまするか”李道令、言うことには、“ああ、じれったい、彼のものはなんじゃ”」(2B)李道令がに乗った春香の姿を見て驚き、房子に尋ねる場面である。問題は、李道令の質問に対して、房子が「“何処に、何が見えまするか”」ととぼけ、主人をからかっていることである。ここを削除したということは、下人が両班子弟をからかうことをよしとしなかったのであろうか。

②[房子]「“そちがもし行くなら、わが道令様(わかさま)、今、そちにぞっこんゆえ、そちの甘いことばで、酢漬(よれよれ)の葉っぱとなした後、そちの亢羅(すかしおり)の下着、するりと脱いで、くるくると巻き、左のほっぺたにくっ付ければ、南原のものはすべてそちのものとなるゆえ、こんないいことがどこにあろう。”」(3B)春香を呼んでくるよう言いつけられた房子が、春香に李道令を誘惑するようけしかける場面である。現実主義的な房子は、春香に「南原のものはすべてそちのもの」になると利益誘導し、自分もそのおこぼれに預かろうとしている。こうした行為も、忠実な従僕ではないとして削除したか。

③[春香]「春香、言うことには、“この悪党め。人をそんなに驚かすでない。わたしがしようが、ブランコに乗ろうが、そちとは何も関係のなきこと。春香だ、麝香だ、桂香だ、降真香だ、沈香だなどと、道令様に言ってほしいと誰が言った。”」(3A)ここは、春香が、李道令に言いつけられて呼びに来た房子に怒りをぶつける場面である。
『京板三十五』には、この前に、春香が怒りを爆発させる契機となる房子の言葉があるが、
『京板三十』では省略されている。いずれにしろ、貞淑な春香の態度としては、たいへん感情的で乱暴である。

④[月梅]「庭から伺えば、春香が母、湯罐に粥を炊きつつ、涙で難詰し、嘆くに、“わが運命、数奇にして、つとに父母を亡くし、中年に夫を亡くし、末年、独り娘を頼りにしたるも、怨讐(かたき)の李道令のみ、堅く信じて、かかる様となりたれば、なんとしたらよいものか。どうか神様、お察しください。”」(22B)この場面は、御史となった李道令が春香の家を訪ねてみると、獄中の春香に食べさせる粥を炊きながら月梅が独り嘆く場面である。月梅は人が聞いているとは全く予想していないので、「怨讐の李道令」とストレートに怒りが表現されている。かなり強烈な表現となっているので、避けたのだろうか。そうだとすれば、桃水は、温厚な月梅を期待していることになる。

⑤[月梅]「春香が母、言うことには、“そちの貞節、無視され、か弱きお前が鞭打たれしゆえ哀れなるも、かえりて憎きなり。わが言うままに、夜伽(よとぎ)していたなら、かかることにはならず、一村すべて、そちの手に入り、南原すべて、そちのものになりたらんに、貞節がなんだというのか。”」(15B)

ここは、月梅が鞭打たれ瀕死の娘を見て、「わが言うままに、夜伽(よとぎ)していたなら、かかることにはならず、一村すべて、そちの手に入り、南原すべて、そちのもの」になったのにと嘆く場面である。上記②で、房子もこれと同様なことを言っており、両者ともに眼前の利益を追求する現実主義者であることが分かる。

さらに(以下、具体的引用は省く)、

⑥(16B)では上記と同様、月梅が新官使道の要求に応じるよう考え直せと春香に迫っている。これも⑤と同じく、貞節な春香の母親の言動として相応しくないということでか削除されている。

⑦(25A)は、獄中春香を訪問した李道令を、月梅がないがしろにする場面である。この直前の場面で、春香が「どうか、妾(わ)が家に行かれて、静かに休」んでくれと李道令に頼んでいるのだが、裏切られた月梅にはどうにも李道令が許せないのである。だが、乞食同然の身となった者を追い出すのは、情け知らずということになろう。

⑧(29A)は、⑤⑥に続き、月梅が嘆き悲しみつつ春香に使道(長官)に従うよう三度目の説得をする場面である。
以上を見てみると、すべて登場人物たちの感情的言動が削除されていることになる。それらをさらに詳細に見てみると、忠実な従僕でなかったり、貞淑な春香でなかったり、情け深く理知的な母親でなかったりする内容である。つまり、あるべき人間像や行動規範から逸脱した表現群を、桃水は削除したものと考えられる。そうした分、分かりやすくなったが、おもしろさが減少したように思う。
. 諧謔部分

『京板三十』から削除した諧謔部分は、①「狂喜して喜ぶ月梅」と②「虚.奉事、犬の糞をつかむ」の2カ所がある。

①[狂喜して喜ぶ月梅]「泣きに泣くとき、官属ども、春香が母を、致賀(いわ)うに、“かかる稀罕(まれ)なる目出度きこと、世にありなんや。”と言えば、春香が母、“それは、どういうことなるか。”と、三門(だいもん)の隙間より、首傾(かし)げて、覗き見て、五里ほど飛び出、粥の器、十里ほど飛ばし、手をたたき、“オルサ、チョウルシゴ、天下に、かかる貴い格(かた)が、またとあろうか。三大僧頭扇に、離宮殿がよく似合い、琥珀のカッキン.に、サホ格子がよく似合い、老人の髷(サントゥ)に、プルグスルがよく似合い、壊れた杵(きね)に、むぎつぶがよく似合い、トクツムの湯罐がよく似合い、眼疾(がんびょう)に、黄色い手ぬぐいがよく似合い、妓生春香に、御史書房(ぎょしのわかさま)がよく似合い、春香が母に、御史婿(ぎょしのむこ)過分なり、過分なり。それ、真(まこと)ならんか、偽(いつわ)りならんか、いずれにしろ、悦ばしきことなり。”とて、喜不自勝(おおいによろこ)び、尻踊りをして、あちこち飛び跳ね、(―中略―)オルサチョッタ、チファジャ、チョウルシゴ、わが娘、春香を生み、今日の慶事となりたれば、この上なき喜びにして、嬉しきことなり。みんなも、娘生み、わが如くに、孝道(おやこうこう)受けなば、不重生男(おとこうむより)重生女(おんなをうむがよし)なる言葉、空事(そらごと)にはあらざるなり。”」(29A~29B)
これは、月梅が大団円で、暗行御史が李道令であったことを知り狂喜して喜ぶ場面である。京板系のみならず完板系にもこの場面は必ずあるのだが、桃水はこれを完全削除している。それまで、何度も春香に考え直して夜伽をするよう説得していた者が、「妓生春香に、御史書房(ぎょしのわかさま)がよく似合」うと褒めたり、「尻踊りをして、あちこち飛び跳ね」るさまが貞淑な春香の母として相応しくないと考えたからであろうか。
②の「虚奉事、犬の糞をつかむ」は、盲目の虚奉事が春香に呼ばれ獄を訪ねる途中、牛の糞を踏みつけてすべって転び、手をつくと、そこに犬の糞があって手にべっとりと付く。あわてて手を振り払うと、今度は思い切り獄の塀にぶっつけた。そこで、虚奉事は思わず手を口に入れるという笑い話である。では、この話はなぜ削除されたのだろうか。荒唐無稽な笑い話は、筋と関係ないとして省略されたのだろうか。ともあれ、ここで削除された諧謔は、「Ⅲ-.新たな挿入」で補充されることになる。

. 異文化、その他


韓国固有の文化であるため、日本人には理解しがたいと考え削除したと思われる部分がある。それらは、韓国固有の詩歌である時調.

」や歌詞(カサ).

」や歓迎行事などである。

①[時調(シジョ)]「(李道令)歌をひとつ作って与えたが、その歌に、《元気でいろよ、すぐに帰るからな。元気でいろよ、行くとて帰りこぬわけでなし、帰らぬとて、忘れるでなし。夢覚めて、側になかりしを悲しまん。》春香、これを見て、返すその歌に、《行かれるとて、悲しむなかれ、お送りする、わが思いもあるぞかし。山畳々、水重々なるゆえ、どうか無事に行かれませ。途中、長きため息つきなば、私が嘆き暮れていると思いませ。》」(京板三十・12A)これは、春香と李道令が別れる時、互いに面鏡と玉指環を取り交わすが、その時の歌である。時調は日本の和歌のような短詩型文学ではあるが、その独自性を伝えることが困難なので削除したのだろうか。

②[歌詞]「李道令、言うに、“実に上手なるゆえ、さらに歌え。”と言えば、続けて歌うに、A人間離別、万事中(いろいろあるなか)で、独宿空房、ひときわ悲し。相思不見(おもうてあえぬ)、わが真情(おもい)、たれか知らん、このわが思いを。B月よ、月よ、明るき月よ、李太白の遊びし月よ。太白、死せしのちは、たれと遊ばんとて、明るく照らすや。C春眠、朝寝し、紗窓、半(なかば)開けば、庭花、灼々たりて、飛び行く喋々、止まりし如く、岸の柳、依依(なび)きて、香を漂わせるなり。……(後略)」(26A~26B)これらの歌詞(カサ)は、李道令が使道の誕生宴に強引に参加して、妓生に「勧酒歌」を歌わせたのち、さらに要求して歌わせた歌である。Aは「相思別曲」の冒頭で、Bは「歌曲男唱羽調の頭挙」.の歌詞に似ている。Cは「春眠曲」の冒頭である。他に、「漁父詞」、「白鴎詞」の冒頭などが歌われている。
以上、時調にしろ歌詞にしろ、韓国的な情緒を出すのに格好な材料だと思うのだが、これらはすべて桃水により削除された。今日からは想像できない両国間の文化的障壁があったのであろう。

③[新官歓迎行事]「一村の官吏、威儀を正して歓迎するに、清道旗一対、紅紋一対、朱雀旗、南東角、西南角、紅藍紋一対、黄紋一対、巡視一対、白紋、黒紋、各一対、金鼓一対、胡銃一対、鑼一対、笛一対、胡笛二対、喇叭二対、棍杖一対、令旗十対。左官、右令箭を前面に押し立て、後別隊、諸執事、長轎、左右に並びしが、若き妓生、緑衣紅裳、大人の妓生は着戦笠し、老いたる妓生は領率して、すべての官属、お出迎えすれば、威風堂堂たる」(13A)

④[念書(タジムサヨン)]「(新官)“春香をじんもん直ちに刑推せよ。”と、命ずれば、邏卒、走りしばりあヒョントウルて、春香を結縛げ、刑椅子に坐らせしのち、うったえましたるわた刑房、念書を読んで聞かせるに、「白等女矣身しめもとよりいやしきしょうぎわがみをかえりみず是、根本娼妓之輩なりしが、不顧事体して、スジョルキジョルといしわけこれこれ守節気絶は何為之曲折である。が、新政之初、官庭発悪をなし、凌辱官長せしに、こときわめてふとどきばんしにあたいまず事極駭然なり。罪当万死するゆえ、于先、厳刑重治なさる念書なり。」(15A)以上③④は、日本にも似たものがあると考えられるので「その他」とする。③は、李道令の父親が都に栄転した後、新官使道が威儀を正して、にぎやかな音楽とともに赴任してくる場面である。仰々しい隊列や権威主義は、新官使道の人となりをも表わしている。④は、春香に拒絶され激怒した新官使道が、拷問を加えるよう命令したときに示された「念書」である。以上二つは、異文化であるためというより、筋を単純化するために省略したように思われる。

Ⅱ.原典縮小部分ある場面全体の削除ではなく、縮小した部分を整理すると、「文字打令、勧酒歌」、「その他」がそれである。これらの縮小は、同類のものを次々と並べ立てたり、食事の豪華さなどを描写したところで行われている。これらの場面は、パンソリでは唱者が歌唱力を誇示する所であるが、そうした理解に欠ける日本では長ったらしいと縮小されたのであろう。次に、それらを具体的に見てみよう。
.
 年字打令、人字打令など
文字打令、勧酒歌など」は、すべて李道令と春香の結婚初夜に行われたもので、二人の幸福な初夜を演出するものである。文字(クルチャ)打令には、「文字打令」、「人字打令」、「年字打令」があるがそれぞれ縮小され、勧酒歌も縮小されている。そうした例として、「年字打令」を挙げておく。
A『京板三十』が、B『鶏林情話』のように五分の一近くに縮小されている。(下線=西岡)
わたしねん
A. “ 妾は<年>の字を韻としましょう。”とて、<年>字を集めしに、なかば「憂楽中分非百<年>」、〔憂楽中分にして百あら年非ず〕
「胡騎長駆五六<年>」、〔胡騎長駆して五六年〕
「人老曾無更少<年>」、〔人老ゆも、曾つてか少年に更へるなし〕「霜鬢明朝又一<年>」、〔霜鬢、明朝又一年〕「寂寞江山今百<年>」、〔寂寞たる江山、今百年〕「咸陽遊侠多少<年>」、〔咸陽の遊侠、少年多し〕「経歳又経<年>」、〔歳を経て、又年を経る〕「寒尽不知<年>」、〔寒尽きて年を知らず〕「一<年>、十<年>、百<年>、千<年>、去<年>」、こんねん「今<年>、我ら二人、偶然逢いて縁結び、ひゃくねん
百年ちぎりしに、百年は千年とならん。」
(京板三十・10A)ねんじあつまう

B.“<年>の字を集め申さん”とて、ひとおか人老曾無更少<年>」、〔人老いて曾つてせうねんか少年に更へるなし〕かんやうゆうけふせう咸陽遊侠多少<年>」〔咸陽の遊侠、少ねんおほしる年多し〕と記し、(鶏林情話・第六回)

また、縮小比率を見てみると、「文字打令」は十分の三に、「人字打令」(『京板三十』では15例)は「尚、数十の文字を集め」と縮小されている。また、「勧酒歌」は約三分の一ほどに縮小されている。

. その他の縮小場面
その他の縮小場面は、「春香の装い」(京板三十・1B.鶏林情話・第二回)、「奉事様(おめくらさま)は父の親友」(17B.第十三回)「農夫の施政批判」(21A~22A.第十五回)、「獄中春香、李道令に再会して喜ぶ」(24A~24B.第十八回)である。これらの場面は、桃水により縮小されている。例として、「獄中春香、李道令に再会して喜ぶ」を挙げておく。
A『京板三十』が、B『鶏林情話』のように一行に縮小されている。
A. .
“これは、なんたることか。夢ならんか、うつつならんか。明天、感動ましまして、逢わせて下さりしか。天(てん)より下りしか、雲に包まれ来たりしか。この間、仕官に奔走(おわ)れて、来られざりしか。夏雲は多奇峰(きほうおお)く、山に妨げられ、来られざりしか。春水満四沢(しゅんすいしたくにみ)ち、水に遮られて、来られざりしか。いかにして、かくも消息(たより)の頓絶(とだえ)しか。妾、死して、北.山川にて、再会せんと思いたりしに、今日、相逢えば、うれしさこの上なく、よろこび限りなし。七年大旱に雨の降り、九年大水に日の照る如く、喜ばしくもうれしきかな。”」(京板三十・24A~24B)

ねんひ〔で〕りあめえきゅうねんこう〔ずい〕ひ
B. . 七年の旱に雨を得、九年の洪水に日みこのよろこびおよを見しも、此喜には及ぶまじ。」(第十八回)

また、「春香の装い」は具体的で微細な描写が長く続くので縮小したと考えられる。同様に、「農夫の施政批判」も、二回にわたって同じような描写が繰り返されるので縮小したのであろう。しかし、「奉事様(おめくらさま)は父の親友」の縮小は、桃水が、許奉事が春香の父親の親友であることを忌避して削除したと考えられる。なぜなら、桃水は春香の貞淑化を図り、『鶏林情話』(12回)でも童便は母の月梅に飲ませているからである。

Ⅲ. 新たに挿入された部分
本章は、挿入が日本人の『春香伝』理解にプラスになると考え、桃水が挿入した部分である。それらは、「新解釈を挿入」、「訳者桃水の注記」、「新たな諧謔の挿入」、「日本的修辞=掛詞」、「新聞連載に伴う挿入」であるが、「新聞連載に伴う挿入」のみは新聞という媒体の特殊性に伴う挿入である。
. 新解釈を挿入
日本人読者のために桃水が独自に解釈を施し、『京板三十』に挿入した部分がある。それらは、次のようである。
しゆんかうみいかに
①(李道令)「“春香が身の、如何にあらん。いまなほぎせきおもひたゆひま
今尚、妓籍にありやなしや”と、思絶る暇とかくものおもばさんが
てハなかりしが、“斯て物を思へバとて、山河ばんりへだひとあすべ
万里を隔て[し]人に逢ふべき術もあらざれむしがくげふこゝろこじせつま〔た〕しかバ、寧ろ學業に心を込め、時節を待ん。爾なり”」(『鶏林情話』第十四回)ここは、春香と別れて、今は都に暮らす李道

令が描かれている。原典には、「李道令、上京後、昼夜学業に専念」とあるが、なぜそうしたかについての記述はない。それを埋めたのが上掲の一文である。この解釈によって、李道令がなぜ猛烈に勉強し、科挙に「一も二もなく及第」したかがよく分かる仕組になっている。
そつじことかうくわいわれはけつ
②「“卒爾な事して、後悔すな。我ハ、決して〔こ〕じ〔き〕〔いまこのとち〕〔ふ〕しぼ〔く〕し乞食にあらず。今、此土地[の]府使朴氏ひ〔と〕う〔やま〕〔た〕みあ〔い〕ぜんせいきこ〔え〕たかハ、人を敬ひ、民を愛し、善政の名聞高けれけふたんしん
ば、誰とて喜バざる者あらず。今日、誕辰のいはひきわれわれ〔ご〕とひやくしやういさゝことぶたて祝と聞き、我々如き百姓も、聊か壽き奉ません〔り〕とほきたつらんと、千里を遠しとせずして來れり。さいかいまありさまうはさじつおほるを、怒りて今の景状、噂と實ハ、大きなた〔が〕ひやみなんやみなん相違。已矣、已矣”」(第十九回)

これは、使道の誕生宴に参加しようとした李御史が、門番から乞食扱いされたときに述べた言葉である。ところで原典『京板三十』では、一度、門番が小便に行ったすきに入ろうとしたが失敗し、やむなく「塀が崩れ、筵にて覆いたれば、そっと挙げて、中に入」ったとある。これでは暗行御史の品位がとうてい保たれない。およそ泥棒猫といった感じである。そこで、乞食にも等しいこの男が堂々と使道誕生宴に参加できる仕組みが、桃水の上記説明である。ところで、『南原古詞』にやや似た表現があるが.後半部分の「我々如き百姓も、……噂と実ハ、大きな相違。已矣(やみなん)。已矣。」という日本的表現からして桃水の創作であろう。

そのひくしよかうころおり
③「其日も暮れ、初更の頃となりにける。折みなれやくにんきたしゆんかうまゐから、見馴ぬ役人來り、“春香、参れ”よびださてきのふだうれいきたと、召出すにぞ、“扨は、昨日、道聆が來りしことあら事の、顯ハれしか。”」(第二十回)

これは、誕生宴に暗行御史が現れたその日の夕方、役人が獄中にやって来て、「“春香、参れ”と呼び出」す場面である。「見馴れぬ役人」が状況の変化(暗行御史の登場)を示唆しているのだが、この言葉は原典にはない。では、新たに桃水がこれらの語を挿入した理由は何だろうか。それは、「暗行御史出道」事件を春香が知ってしまえば、李御史(=李道令)のことまで知る可能性があるのでここでは伏せたかったのであろう。しかし、獄中にいたから大騒動について何も知らなかった、というのでは合理的でないと考えからではあるまいか。
. 訳者桃水の注記
桃水は、日本人読者を考慮して、各回の末尾に「訳者注」を付けたり、文中に「小注」を付けている。それらの多くは、両国の社会・文化・言語の違いによるものについてである。まず、訳者注から見てみよう。
訳者注は、第一回、第五回、第十四回、第十六回、第二十回にある。そのうち、第十四回、第十六回、第二十回は暗行御史に関係している。そのうち、3回だけ挙げて説明することにする。

①「(第一回の李道聆に、髯(ひげ)を生(はや)せしは畫工の誤りに付、取消しではない剃消します。)」(第五回)これは、第一回に春香と李道令が逢う場面の挿絵があるが、李道令は成人でもないのに髭を生やしている。また、服装もなんとなく中国風である。それらについての訂正文である。絵描きが誤解したということだが、これは当時の日本人一般の韓国人理解を示すものであろう。また、「取消しではない剃消します」という表現には、江戸末期の戯作者風な感じが出ていることに注意する必要がある。
やくしやいはぎよしあ〔ん〕ぜつしごと

②「(譯者曰く、御史ハ按察使の如きものにしよだうせいじぜひくわんりぜんあくし〔さ〕つて、諸道政事の是非、官吏の善を視察するものなり)」(第十四回)御史は「暗行御史」のことであるが、日本人には聴きなれない言葉であるので説明を加えたものである。「按察使」は、明治二年に明治政府に設置された役職で、府藩県の政績を監督した役職という。桃水は、「暗行御史」の訳語をもっとも近しいものから採用したことが分かる。そうだとすれば、この訳語は当時の人々には分かりやすかったのではあるまいか。
やくしやいはいだうれいぎよしか
りすがた

③「譯者曰く、「李道聆が御史となり、に姿やつしゆんかうはゝ〔まで〕い〔つ〕はり〔かま〕へてを痩しながら、春香の母に迄詐をい〔た〕づな〔げ〕きまは〔じやう〕な〔き〕〔わざ〕徒らに嘆を増さしめたるハ、無情業にや〔つ〕が〔れ〕あ〔る〕かんじんなじとに似たり」とて、小生、或韓人に詰り問ひそのひとこたへいこれいちつはぎよししに、其人の答て云へり。「此一ツにハ、御史ものほふまたいちつはか〔は〕さましめたる者の法と、又一ツにハ、變れる状を示しあくまではゝこまごゝろさぐためて、飽迄、母娘の眞意を探らん爲なり」と。ばかんかくちゆうおなおもひおこきみされバ、看客中、同じ思を起すの君もあらんつひで〔し〕るおかと、序に記し置くになん。)」(第十六回)

これは、李御史が乞食の身なりで春香の母に会い、身分を偽ってだましたことへの説明である。ところで、桃水自身も「或韓人に詰り」尋ねているので、それほどまでに日本人には理解しがたいことだったようだ。
また、文中に「小注」がある。短かいものであるが、第五回、第六回、第八回、第十回、第十三回、第十五回に渡っている。それらを見てみると、次のようである。
① . (聞く、此字合せと云へるハ、互に思ふ文字を書きて、情を遣るものなりと)」(第五回)

② . (因人国音通ずる故ならんか)」(第六回)

③ . (春香の春の字を忘れたるなり)」(第八回)

④ . (蓋し、香と



と国音同じきが故に、房子は早くも誤解したるなり)」(第八回)

⑤ . 将差(官吏)」(第十回)

⑥ . 按摩(占いをする人なり)」(第十三回)

⑦ . 衙門(官吏なり)」(第十五回)



まず、①の「字合せ」であるが、李道令と春香が結婚初夜を楽しく過ごしたときの遊びの一種で、好ましい字を集めて話らしきものを組み立てて遊ぶもの。こういう遊びは日本にはないので、注を施したと思われる。②は、二人が結婚することになったのは不思議な「因縁」なので、私は「人字」集めをするという李道令のことばに付したもの。日本人には「因(いん)」と「人(にん)」では音が違うので関連づけられない。それで、桃水は「国音(=韓国音[西岡注])通ずる故」と注を付し、韓国語では同音であることを明らかにしたものである。③は、南原府使に任命された新官は、早速うわさに聞いた妓生のことに思いを馳せるが、正確に春香の名前が浮かばず、それで下人に「香(こう)と云へるものありや」と聞いたということである。④は、新官の「香(コウ)」を受け、房子がさらに「

(コウ=子羊)」と誤解した理由を明らかにしたもの。これについては、Ⅳ―.―③で詳しく論ずる。⑤「将差(官吏)」と⑦「衙門(官吏なり)」は、日本人には不慣れな漢語なので注を付し、⑥「按摩(占いをする人なり)」は、按摩が占いをすることは日本では一般的ではないので注を付したものである。
. 新たな諧謔の挿入
Ⅰ-.諧謔部分」で前記したように、『鶏林情話』では「狂喜して喜ぶ月梅」と「虚奉事、犬の糞をつかむ」が削除されている。ところで、第十五回の李御史が農夫と話をする場面では、
前記削除部分を補うかのように、桃水により. 大型の笑い話が挿入されている。
われらむすめはたちときとなりむらりしよぼう

「“我等が娘ハ、二十歳の時、隣邑の李書房がつまおくにつつきめわかかへそのあと妻に送りて二ツ月目、別れてり、其跡が、むらおさがりぼくしよぼうこれとつわづいつゝきそれ邑長許の朴書房、是も嫁ぎて僅かに五月。夫てうしきんしぎよしいりかへきより趙氏、金氏、魚氏。入てはり、來てはゆひとりむすめごにんむこかはすえわれ行き、一人の娘に五人の婿。變つた末が、我らやくかいみそぢうへこいまなほやもめ等の厄介。卅路の上を越えながら、今尚鰥でくらゆゑうたひめおもおぼえげいは暮す故、妓生になとせんと思へど、覺た藝ハ、すきくはたがへだけせきやまいろあくまでくろ鋤鍬もて耕す丈が關の山。色、飽迄黑けれバ、べにかねつけはゑからだはなはなはひ紅粉装るに功績ある五體。鼻、甚だ低くけれたふきずつうれひけいせいバ、倒れて傷く憂もなし。されバ、傾城になおもしひとびとものがたばもつたいさんと、思ひ知る人々に物語れバ、勿体なしおもわらさらこたへいまとや思ふらん、笑ふて更に答なし。今でハ、べつせんかたかゝびじんうもれぎうちすてお別に詮方なけれど、斯る美人を埋木と打捨置のこりをいちどはなさおもひついくも遺憾し。一度ハ花が咲かせたしと、思附いまいふしそばめい〔つ〕さくたハ今も云ふ、府使の侍妾になすの一策。まずこゝろいひいよくしがもんくわんり先、試みに言入れんと、能知る衙門(官吏なはなおきけふひつぢやうへんじり)に話し置たり。今日ハ必定、返事のあらいそかへとふみそばめかゝへんに、急ぎりて問て見ん。侍妾に抱らるゝまへはなしたねみおきひとあしさきかへまた前、話の種に見て置ね。一足先に、りて待あまはなしみいひかたぶしん。餘り話に實の入りて、日の傾くも知らざかつてならびたてくはとりし”と、勝手なことを並立、鍬かい取りてかへゆり行く。」(第十五回)
ところで、この話はなぜ挿入されたのだろう

か。考えられることは、前述したように、削除された諧謔の補充である。しかし、内容を原典である『京板三十』と比べてみると、原典では農夫の施政批判や李道令批判が数度にわたって行われている。桃水は、こうした施政批判を単なる笑い話に置き換えた感がある。その意味では、政治批判、権力批判が抑えられているように思える。

. 日本的修辞・掛詞
『鶏林情話』には、原典にはない<掛詞>が使用されている。これは、和歌や俳句などの短詩において同音異義語を活用するために発達した技巧であるが、散文にも用いられた。
『鶏林情話』では、掛詞は16回使用され、第七回.、第九回.、第十回.、第十一回.、第十二回.、第十三回.、第十六回.、第十七回.である。
ところで、春香伝を別離の場面で前半と後半に分けるとすると、第一回から第七回までが前半で、第八回から二十回までが後半ということになる。そうだとすると、掛詞の使用はほとんどが後半で使用されていることになる。さらに、各回冒頭部分への挿入がやはり後半に集中していることからすれば、後半でかなり自由な翻訳がなされたと考えられる。以下、煩雑を避けるため五例だけ掛詞を紹介する。

おもひつゞおぼほ〔ろ〕りほ〔ろ〕りおとひと
① 思續けて、覺えずも、滴々と落す一しづくおななげふしゝばばか
雫。同じ嘆きに、伏柴のこる計りなる。」(第
七回21P)あきゆふべかなは
② . 秋の夕ハおしなべて悲しきもの[を]、葉がくあせえん
隠れに逢ふ瀬の縁もきりぎりす、」(第九回24
P) すぎわかれしのなげきひゞますかゞみ
③ . 過し別の偲ばれば、嘆ハ、日々に十寸鏡、」
(第九回24P)あとみおくりはゝおやはひといきつえ
④ . 跡見送て、母親ハ、ホツト一息つく杖の、おひちからたのむすめみうへ〔い〕かゞ
老の力と懶みたる、娘の身の上、如何あら
ん。」(第十回26P)えたえおつおともしこゝろつゆ
⑤ . 得堪ず落る音だにも、若やと心おく、露そでたもとあへなげ
のそれかあらぬか、袖袂、しぼりも敢ず嘆きける。」(第十回27P)

①の「こる」は、木を伐(き)る」の意の「こる」と「こりる」の意を掛けた掛詞。嘆き」は「投げ木」の意味を含み、柴」の縁語となっている。また、「ふし柴のこるばかりなる」は、千載和歌集・恋三799の「かねてより思ひしことぞふし柴のこるばかりなる嘆きせむとは」(前から予想していましたよ、こりるほど嘆くことになるだろうと)を踏まえたものである。和歌では、ふし柴の」は「こる」の枕詞。②の「縁もきりぎりす」の「きり」は、縁も切れ」の意の「切り」と「きりぎりす」の「きり」を掛けた掛詞である。③の「日々に十寸(ます)鏡」の「ます」は、嘆ハ日々に増す」と十寸(ます)鏡」の掛詞で、十寸鏡は真澄(ます).鏡」のことである。④の「ホット一息つく杖」の「つえ」は、一息つく」と「つく杖」を掛けた掛詞。⑤の「若やと心おく、露」の「おく」は、心おく(心配する)」と「置く露」を掛けた掛詞である。これらの使用は、何よりも文章を当時の読者の趣向に合わせたものであったろう。それだけ自由に桃水が文章作りをしたとも言えよう。

. 新聞連載に伴う挿入


新聞連載小説は、一回ごとに決められた枚数が要求されると同時に、次回に向けて興味をつなぎ、さらに前回との関連性を想起させる必要がある。ここで問題にする冒頭の挿入は、前回との関連性に関するものである。
挿入は、第六回、第八回、第九回、第十回、第十二回、第十六回、第十七回、第十八回の計8回あるが、第六回と第九回だけを例として紹介する。
しゆんしやうみぢかくるからうた
[第六回の冒頭]「春宵短きを苦しむと、詩つくごとほどとうはうしらみわたび〔ふ〕うにも作りし如く、程なく東方白渡り、微風ふきお〔こ〕つしんりうひとこゑあうてうなんし吹起て新柳をはらひ、一聲の鶯鳥、南枝にさへづるころりだうれいめさふしどうへ囀々頃、李道聆ハ、眼を覺ませし褥の上よりさけよ
酒を呼び」

冒頭の「春宵短きを苦しむ」とは、よく知られた白楽天「長恨歌」の一節「春宵苦短日高起」を踏まえている。第五回で、結婚初夜を「暫く熟睡(むまい)なしたりけり」と終了した桃水は初夜翌朝をどう起稿するかが問題であった。ましてや、原典にも翌朝の場面はない。それを桃水は、「長恨歌」の一節を使ってみごとにクリヤーしたと言えよう。見事なつなぎである。しかし、この結果、李道令は、翌朝「日高くして起」きる羽目にもなる。それが「東方白渡り~」以降の文章である。さてとくなんげんうたひめしゆんかう[第九回の冒頭]「却説、南原の妓生春香ハ、ぜんふししそくりだうれいふかおもひとたびちぎり前府使の子息、李道聆に深く思ハれ、一度契むすひよくれんりちかひこよを結びしより比翼連理の誓を込めしも、世にさあいべついまたちますうひやくりくもゐへだて避けがたき哀別に、今ハ忽ち數百里の雲間隔わたかりつましたなしかあきゆふべて渡る、夫慕ハれて鳴く鹿の、秋の夕ハおかなはがくあせえんしなべて悲しきものを、葉隠れに逢ふ瀬の縁くさまつゆかげき〔よ〕つきみもきりぎりす、草間の露に影清き、月ハ見しよかはかはりはておもかげいかふたゝひと夜に異らねど、異果たる面影に、豈で再び人まみしばとかたとざかうがんふたに見えん。柴の戸堅く鎖しつゝ、紅顔、再びよそものううんばつさらくしけずひたすらみやこ装ふに慵く、雲髪、更に梳らず。只管、京都そらあ〔い〕しふまどあかつきねざめの空なつかしく、愛執の窓にハ、曉の寐覺をそらだきかをすぎわかれしのしたひ、の香りに、過し別の偲ばれば、なげきひゞますかゞみくもためのこしかた嘆ハ、日々に十寸鏡、曇らぬ爲に遺たる、片みいまなかなかくもおもひなかだちこのひ見ぞ今ハ中々に、曇る思の中媒にて、此日も、お思もひなやときとなぐ〔さ〕めてなれことみたる時に、取りての慰と、手慣し琴つまこきよくねいろに夫戀ふ曲、音色やさしくかなでける。」

原典『京板三十』では、新官使道に春香のことを聞かれ、貞節を守っていると答えると、使道は直ちに連れて来いと命じる。役人らは、直ちに出かけ春香の家に到る。原典は、一方的な役人の側からの描写であるが、『鶏林情話』では、役人が出かけたところで第八回が終わり、第九回冒頭は上記のように、李道令と別れて悲しみに浸る春香に焦点をあわせている。そして、そこに役人がやってくるという設定になっている。この設定の変化も、新聞連載という制約がもたらしたものであろう。

Ⅳ. 原典改変部分
原典改変部分は、「日本的改変」と「合理的改変」に大きく分けられる。異質な文化を日本人にどう伝えるか、また、異国の話をどう分かりやすく伝えるか、桃水がいろいろ苦労した痕跡が伺える。
. 日本的改変
日本文化にないものは伝わりにくいことを考慮して、桃水があえて置き換えたものがいくつかある。それらを「日本的改変」と称したが、以下の通りである。①[天中之節(

)⇒上巳の節(曲水の宴)]
たんごのせっくとうちの
A. . 時折しも、五月五日、天中之節なり。本邑キイセン
いふくととの

妓生、春香、
に乗らんと衣服丹粧え飾る
に、」(京板三十・1B)さいはあすじやうみせつ
B. 幸ひ、明日ハ上巳の節な[り]。」(第一このひなんげんうたひめしゆんかうきよくすいあそ回)「此日、南原の妓生春香ハ、曲水に遊バためこゝかしこさまよ
ん為、首處那處に徘徊ひける。」(鶏林・第二回冒頭)原典では「五月五日、天中之節」となっているが、日本ではこの日は男の子の節句である。それで、女の春香が「曲水に遊バん爲」出かけるには、女の子の節句である「上巳の節」に変更する必要があった。それに伴って、ではなく、上巳の節に行われる「曲水の遊び」に変更されることになる。

②[不忘記⇒起証文]
A.某年某月某日、春香前、不忘記なり。みぎふぼうきはるのけしきけんぶつ右不忘記段は、偶然、山川を求景せんものてんのさだめしあいてと、広寒楼に上りしところ、天生配匹に逢よろこびのあまりひゃくねんのちぎりたがいにやくい、不勝蕩情、百年佳約、結ぶを、相約せのちにいやくしが、日後、万一、背約せる弊あらんには、このふみかんにうったえただす此文記もて、告官弁正事べし。」(京板三十・5A)なんねんなん〔が〕つなんにちりだうれいしゆんかうお〔く〕き

B.何年何月何日、李道聆、春香に送る起しやうこと証の事そもそもみぎきしやうおこりぐわつきよくすいあそび抑々、右起証の由縁ハ、三月三日、曲水の遊みためくわうかんろうのぼてんせいはいちあを見んが為、廣寒樓に登り、天生の配置に逢ねんかやくむすしよう
ひ、百年の佳約を結びたるを証すにちごはいやくことこのしよもつためつ日後、背約する事あらバ、此書を以て為に告べんせいことげ、正する事」(鶏林・第三回)

不忘記が「起証文」に変更されているが、起証文は主に江戸時代の遊郭で客と遊女との間に取り交わされたものである。まだ新しい近代文学は生まれ出ず、江戸戯作小説の影響力が残っていた当時にあっては、起証文なる語が強力に生きていたのであろう。ただし、起証文の内容は原典を翻訳したものである。

③[香と云えるものありや]おんをしゃしれいをしていわいきゃく
A. . 新官は謝恩粛拝、家に帰り、新延官属あいさつめいずの現身を受けたのち、吏房を呼び分付る際、春香が名前を忘れて尋ねしゆえ、“そちの村に、ヒャンがいるか。” 吏房が申しあげるに、わたしめヤンヨムソ“小人の村には、羊はおりませぬが、山羊はおよそ二十匹ほどおります。” 新官、それを聞き、こやつめ“此奴、妓生のヤンがいるかと聞いているのじゃ。”」(京板三十・12B)
なんぢさとかうしゆんかうしゆんじわすれ

B.. の“汝に、香(春香の春の字を忘たる

― 29 いいかゞと
なり)と云へるものあり[や]。如何。”と問へこたへいわれらこきやうなんげんやうば、對て云ふやう、“我等の故南原に、羊ハさ更らになけれども、かうけだかうかうこ〔く〕おんハ(蓋し、香とと國音おなゆゑこしやうはやごか〔い〕同じきが故に、房子ハ早くも誤解したるなとうばかかひおきり)、十頭計り置きたり”いらと云ふに、孟端ハ心を焦ち、
“我、かうを何にかせん。”」(第八回)

この場面は、南原府使に新たに任命された新官が、家に帰るや直ちに下人に妓生の名前を聞くというくだりである。原典のAでは、新官が春香(チュンヒャン)の名前を忘れ「ヒャン」とだけ言ったため、下人は「羊(ヤン)」と聞き間違え「羊(ヤン)はおりませぬが、山羊はおよそ二十匹ほどおります」と答えている。しかし、韓国語音を知らない日本人には、(こう「香」と「羊(よう)」となり、なぜ下人が「羊(ヤン)はおりませぬが」と言ったかが分らない。したがって、新官がなぜ怒っているかも分らない。
そこで桃水は、日本人に分かりやすいように、「香(かう=コウ)」を「(かう=コウ=子羊)」に関連づけ、「(こう)ハ、十頭計り置きたり」と改変している。また、韓国語の「香(ヒャン)」と「羊(ヤン)」の関係は、「羊(やう)ハ更になけれども」で受け止めてはいるが、日本人には浮いて見えるであろう。また、「(蓋し、香(かう)と(かう)と國音.同じきが故に、房子ハ早くも誤解したるなり)」と注記されているが、韓国語音は「香(ヒャン)」「(コ)」とそれぞれ異なるので、これは桃水の苦し紛れの策であったろう。いずれにしろ、語呂合わせを翻訳するのは至難のわざである。

. 合理的改変


春香伝に多くの合理的改変を加えたのは申在孝であるが、この「.合理的改変」および上記
― 「Ⅱ.『京板三十』に新たに挿入された部分.新解釈を挿入」を見ると、桃水もかなり改変していることが分かる。
語レベルにおける「合理的改変」は、以下のようにおよそ5カ所である(前者が『京板三十』で、後者が『鶏林情話』。⇒は変更。下線は引用者による)。
①「数日」=「かく楽しみいたりしが、夜が明ければ、身を隠して家路に着き、夜となれば、あたふたと天方地方飛んで行き、悟られずに通うこと数日なりしに、この時、南原府使、愛民善治せしょうかくしを、聖上お聞きになり、陞品させて、戸曹ごにんめいよびだしじょう判書に除授なさり、牌招文籍の届くところとひをえらたつなれば南原府使、日びて発行に際し、李道おんなら
令を呼びて言うことには、“そちは、内行とともに、先に発て。”」(京板三十・10B)
⇒「数ヶ月間」(鶏林情話・第六回)

二人で密かに婚姻し、わずか「数日」にして父親が都に栄転するというのは、いかにも唐突である。『南原古詞』では「数三春秋」となっているが、多くの異本では曖昧にしてある。桃水は、二人の別れを悲愴なものにするためには、少なくとも「数ヶ月」の期間、交際したとするのが合理的だとして改変している。
②「数ヶ月」=「“母様、どうかつまらぬお考えなどなさらず、家にお帰りください。”それうれいなげきから、数ヶ月が過ぎ、長憂短嘆を友として、おくあるひゆめかあらぬか
歳月を虚送りたるに、一日、非夢似夢間、てんかをめぐりへやのいりぐち
周遊天下て、家に帰りてみれば、房門の上に、案山子が掛けてあり、庭に桜桃の花が落ち、いつも見し鏡の真ん中より割れたるを見て驚き、目覚めたれば」(17A)
⇒「二年」(第十三回、第十四回、第十五回、第十六回、第十七回、第十八回)

最初の言葉は、鞭打たれ瀕死の状態になった春香に、「お前も考え直して、母を泣かせず、夜伽をしてくれるなら、どんなにうれしいことか」と母月梅が言った言葉に、春香が答えたものである。それから数ヶ月後、春香は奇妙な夢を見て物語は大団円に向かう。ところで、原典によれば、李道令が去って再会するまでの期間は「数ヶ月」に過ぎないことになっている。しかし、李海朝の『獄中花』では「(余が南原を去りてよりわずか三年)」.

となっているように、「数ヶ月」では科挙試験に合格して暗行御史となるには無理がある。それで、桃水はこれを合理化するため「二年」としている。また、桃水は、この「二年」という期間に固執し、上記のように六回もこの語を使用している。
トリョン
③「年の字」=「春香の言うことには、“道令ニムわたしねん様は、<人>字を韻とされしに、妾は<年>の字を韻としましょう。”」(10A)
⇒「百年佳約を結びたる故、年の字」(第六回)

これは、初夜の文字遊びでの場面で、先に李道令が「我ら二人、<因(イン)>縁深くして逢いしに、<人(イン)>字打令をうたわん」と言って、歌ったのに対する返しのことばである。しかし、「<因(イン)>縁深くして」とあるので、李道令が「イン字」について歌うのは分かるが、なぜ春香が「年(ねん)」字を歌うのかが分かるようにはなっていない。特に日本人には。そこで、桃水は、自分たちの婚姻を寿ぐ意味で、春香が「百年佳約」の「年」字を持ち出したと解釈している。ただし、韓国人であれば、「因縁」の「縁(ヨン)」と「年(ヨン)」が音通するので、「妾は<年(ねん)>の字を韻としましょう」としたのだとするところであろう。つちう
④言及なし=「“塵土の中に、千万年埋もれるとも、玉の光に変わりなし。”……(中略、時調の応酬をして)……十里外の所にまで出向き、李道令を見送るとき、春香、言うことには」(京板三十・11B~12A)

ゆびわ〔だ〕おく

⇒「其日は立ち帰り」=「指環を出して、送りりだうれいこれうけとつわかれければ、李道聆[ハ]之を受取り、盡きぬ別おもひのつひそのひたちかへちゝことのを述べ、遂に其日ハ立りしが、父の言ばがたよくじつはゝともななんげんふ葉のもだし難く、翌日母を伴ふて南原府[を]た立ちい出でし」(鶏林情話・第七回)

原典は、春香に別れる羽目になったことを告げに行った日に、李道令は旅立ったように書かれている。つまり、別れ話が出た日と、旅立ちが同じ日に行われたようになっている。だが、父親から「内行(おんなら)とともに、先に発て」と言われており、女らの旅仕度を考えるなら旅立ちがその日ということはありえない。それで桃水は、合理的に解釈して、李道令に一旦「其日は立ち帰」らせることにしたと考えられる。
みさおゆびわ
⑤「千万年」=「“女の堅き節介は、この玉指環つちうの如きなり。塵土の中に、千万年埋もれるとも、玉の光に変わりなし。”」(11B~12A)
⇒「数百年」(21P2-6)

この「千万年」は、春香が自分の貞節さを強調したものだが、桃水はこれにも合理的意識を働かせて「数百年」と訂正している。桃水にとっては、あまりに誇張しすぎるということか。桃水がいかに徹底した合理的意識をもって読んだかが伺えるように思う。
Ⅴ. 結論
以上、桃水野史訳『鶏林情話春香伝』とその原典である『京板三十張本春香伝』との比較を通じて、『春香伝』翻訳の初期様相を明らかにした。その結果を要約すれば、次の通りである。
桃水野史訳『鶏林情話春香伝』では、大きく二つの操作が行われた。一つは「削除」「縮小」で、これらは翻訳紹介上、日本人にマイナスだと考えられた部分である。他は「挿入」「改変」で、前者とは反対に、新たに書き加えなどをすることがプラスとなると考えられた部分である。
Ⅰ.削除」の.「春香の家の様子」「庭の様子」などは、春香の庶民性に配慮して削除され、
.-Aの「李道令・使道・役人らの逸脱部分」やB「春香・房子・月梅らの逸脱部分」では、それぞれの行動規範から逸脱した部分を削除し、単純で分かりやすい物語に仕立てている。悪役である新官使道の言動が一切削除されていないことからして、桃水は勧善懲悪小説仕立てにしたと考えられる。また、.の月梅と虚奉事が削除された理由も、.の逸脱に含めて考えてよいであろう。.の時調や歌詞の削除は異文化理解の困難さのためでなければ、物語の単純化のためであろう。
Ⅱ.縮小」の.「文字打令」は十分の三に、「勧酒歌」は約三分の一に縮小されている。このように、概して物尽くしはそれぞれ縮小されている。
以上、「削除」「縮小」を通して言えることは、一つは同類の表現が長々と続く部分、もう一つは人物の行動規範から逸脱した部分で、削除・縮小が行われているということである。前者はストーリーの単純化・明確化のためであり、後者は勧善懲悪小説化のためである。しかし、それによって、韓国的な「家」や「庭の様子」、独自の詩歌、一筋縄ではいかない房子や月梅のおもしろさなどが失われたように思う。
Ⅲ.挿入」の.「新解釈の挿入」では、本文のあいまいな部分に対して、明確な解答を与えるべく合理的な解釈がされている。.の「訳者注」や「小注」は、.の新解釈と同様、日本人読者の理解を助けるものである。.の「新たな諧謔の挿入」は、原典との比較で言えば、農夫の施政や李道令への批判が笑い話に置換された感が強い。明治政府批判と混同されないよう考慮したものか。.の「掛詞」は、ほとんどが後半で使用されている。.の「新聞連載に伴う挿入」は、新聞連載という制約に伴って挿入されたものである。
Ⅳ.改変」の.「日本文化的改変」は、日本にないことは伝わりにくいことを考慮して、桃水が置換したものである。その最たるものは、五月五日の「天中之節」から三月三日の女の節句への改変であろう。これによって、春香の外出が日本で可能になった。.「合理的改変」の①[数日⇒数ヶ月]は、春香と李道令の交際期間を合理的に改変したものであり、②[数ヶ月
⇒二年]は二人が別れて再会するまでの期間を合理的に改変したものである。
以上、挿入と改変を通して言えることは、一つは文化的障壁を乗り越えるために、あるいは「挿入」したり、「注記」したり、あるいは「合理的改変」を加えて、日本人に分かりやすくするという桃水の徹底ぶりである。もう一つは、「掛詞」に見られるように、春香伝の文章を当時の日本人読者に受け入れられやすい文体にまで創り上げていることである。また、掛詞の使用が後半で使用され、さらに各回冒頭部分の挿入がやはり後半に集中していることからして、後半でより自由な翻訳がなされたと考えられる。最後に一言すると、桃水野史訳『鶏林情話』は、削除・縮小で失ったものを差し引いても、流麗な文体で仕上げられた、春香伝の魂を失わない価値ある翻訳になっている。

1)金東旭・金泰俊・



『春香伝比較研究』三英社、1979年、11頁。
2)例えば、日本では、「とりわけ明治十年代に横行したそれらの翻訳(筆者注:『鶏林情話』は明治15年発表)は、事実、原典の文意に対して忠実でないばかりか、自分勝手な空想や小細工を適当にまじえ文章をねじまげて翻訳するといった非良心的なものが多かった。いわゆる『濫訳』や『豪傑訳』である。」(『岩波講座日本文学史第11巻』318頁)とある。
3)以下の例、『韓国学報』第四十輯、170~189頁参照。
4)1860年に対馬の厳原で生まれ、1926年に福井県で死去。大衆小説家として有名。また、女流小説家・樋口一葉の恋人として知られる。桃水は、10才から14才まで釜山で過ごし、このとき韓国語を学んだという。『鶏林情話』は、大阪朝日新聞の特派員として滞在していた釜山で執筆された。
5) 『大阪朝日新聞』(1882[M15]年6月25日~7月23日)に、20回にわたって連載された。
6)桃水野史訳『鶏林情話春香伝』の原テキストについて」(『大谷森繁博士還暦記念朝鮮文学論叢』杉山書店、1992年)
7)(半井桃水)訳『鶏林情話春香伝』研究」(『日本語文学』17、2003年)
8)不明。
9)不明。
10)『韓国文化象徴辞典』東亜出版社、206頁。
11)同上、78頁。12)李道令」の「道令」は成人前の呼称。
13)一般的には「許」氏と訳されているが、とんでもない占い師であるので桃水は「虚」字を当てたと考えられる。
14)カッキン」、サホ」、プルグスル」、および次の行の「トクツム」意味不明。
15)三章(初章・中章・終章)からなる韓国固有の詩歌。ここは、全体が40字前後の平時調。
16)歌辞とも。三四調または四四調の比較的長編の韻文詩。
17)李昌培『韓国歌唱大系』弘人文化社、1976年、43頁。
18)『南原古詞』
(韓国語の現代語表記は引用者による)」(
『春香伝比較研究』439頁)参照。

19)桃水により」とした理由は、筆者の調査した限りでは春香伝にこのような笑い話は存在しないからである。
20)曇りなく澄んではっきり写るの意。
21)桃水は、すでに第六回で「(因人国音通ずる故ならんか)」と注記していて、「国音」が韓国語音であることが明らかとなっている。
22)具滋均『韓国古典文学大系.

』民衆書館、531頁。


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