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Thursday, May 16, 2013

Growth of South Korea after World War II

http://www.koreana.or.kr/months/news_view.asp?b_idx=737&lang=jp&page_type=list

題目 戦後の韓国の成長 検索件数 2331
Author/Position パク・テキュン
Photographer 徐憲康
韓国は朝鮮戦争中、国連21カ国参戦兵士の助けを得て、戦乱の廃墟から世界10位圏の国家に跳躍した。戦後60年韓国の成長史を経済、社会、文化、人口、生活の変化について、さまざまな統計資料を中心に探ってみることにしよう。
パク・テキュン(朴泰均、ソウル大学校国際大学院教授)
写真 : 徐憲康



朝鮮戦争は朝鮮半島全体にとてつもない戦禍をもたらした。それは物的被害だけでなく、離散家族問題や虐殺事件などによる精神的被害は数値では計算できないほど深刻なものであった。戦争がもたらした心理的被害の一つは自信喪失と絶望であった。
植民地から解放され、韓国人は今後、自らの力で富強な国家を建設することができるという自信に満ち溢れていた。たとえ1948年に二つの政府が樹立されたとしても、分断はそう長くはなく、やがて統一し、自主的な自立国家を建てることができると待ち望んでいた。南と北で共に早々と経済復興のための計画を立てたのも、このためであった。
国民所得と対外輸出
戦争はこのような希望と自信を奪っていった。戦争が終わり、一人あたりの国民所得は65ドルに過ぎなかった。これは植民地時期の一人あたりの国民所得にも及ばないものであった。戦後、時が流れ政権が二度変わったが、1961年度の一人あたりの国民所得もまた82ドルに過ぎなかった。インフレを勘案すると、6年間で17ドルの上昇は、足踏み状態といえる。
しかし大韓民国には希望があった。何よりも教育を通して何不自由なく暮らせ、豊かな生活をする権利があるという希望と意志が次第に拡散した。小学校の無償教育が実施され、中学校の進学率も1954年に16%にとどまっていたのが、1961年には38%に増加した。1952年3万名に過ぎなかった大学生の数も1954年に6万名、1960年に9万名を優に超えた。解放直後1千余名に過ぎなかった女子大学生の数も1960年には1万7千余名に達した。2009年現在、大学生の数は307万4000名であり、そのうちの121万2000名が女子大生である。
このような教育の力は、民主主義と経済の復興に対する念願となり、更に4.19革命と朴正煕政府の経済開発計画においての世界でも稀にみる急速な経済成長へと繋がった。1964年から本格的な経済成長期に突入した韓国は、1960代以降1990年代のはじめに至るまでの30余年間、1980年を前後した時期を除いては10%を行き来する高い成長率を記録した。この期間の経済成長率は経済大国である日本を追い越すものであった。
1962年経済開発計画が初めてスタートした時に1億ドルにも及ばなかった対外輸出が1971年に10億ドルを越え、1977年には100億ドル、2008年に4200億ドルに達した。2009年には3637億7千万ドルで13.8%減少した。一人あたりの国民所得も1977年に1000ドルを越え、1987年に3218ドルに達し、1995年には1万ドル、2007年には2万ドルを突破した。2009年には1万7175ドルで5年間の中で最も低かった。

産業国としての位置
韓国の経済力は2009年度国内総生産(GDP)8329億ドル、世界経済力の順位は15位である。アメリカの経済雑誌フォーチュン誌が選定した2009年世界トップ企業100社にサムスン電子をはじめとする四つの国内企業が含まれ、造船、半導体、電子、自動車部門において世界一流の製品を生産している。企業規模の側面からは、世界トップ企業500社のうち韓国企業の売上高の比重が1996年2.9%を記録したが、金融危機以降1.5%以下に急落、その後、再び上昇し2.0%以上の水準を回復している。貿易依存度は世界最上位圏の水準で、輸出中心の経済構造である。アジアが特化している電気・電子、繊維部門と先進国が特化している自動車部門を同時に主力輸出品目としており、アジアと先進国の特性を同時に有している。

進学率と女性の社会進出
経済成長と経済構造の変化は、韓国の社会にとてつもない変化をもたらした。1961年に中学校の進学率が38%であったが、1987年には100%となり、高校と大学の進学率も同期間にそれぞれ21%から80%、6%から29%に増加した。2008年の高校と中学の進学率はそれぞれ99.7%と99.9%で、大学進学率は83.8%である。
このような変化の過程において、女性の社会進出がさらに進んだ。1970年代までは加工産業の単純労働者かバス乗務員のようなサービス業に従事するしかなかった女性たちが、1980年代以降、本格的に専門職に進出するようになった。2009年現在、女性の経済活動参加率は50%である。そのうち女性が占める割合が際立っている分野は教師職で、小学校74%、中学校64.5%、高校42.1%である。公務員の合格者のうち女性の比率は、外務考試(外交官試験) 65.7%で最も高く、行政考試(国家公務員Ⅰ種試験) は51.2%、司法考試 (司法試験) は38%である。現在、第18代女性国会議員の女性の比率は13.7%(41名)で、2000年(16代)、2004年(17代)に比べ、それぞれ7.8%ポイント、0.7%ポイント増えている。
都市化
社会的な変化は、何よりもまず、テレビ、ラジオ、自動車の普及によく見受けられる。1959年に全体でラジオ30万台、テレビ1000台に過ぎなかった(ラジオの普及率は9.1%)。人口1000人あたりのテレビの保有台数も1965年10台にも満たなかったが、1980年には200台、1995年には360余台に及んだ。一世帯を3~4人として推算すると、一台以上のテレビを保有するに至ったのである。1980年代まで、家族間のけんかの原因の一つであったチャンネル争いを見ることも今は難しくなった。
都市への移住率も急激に増加した。1955年に23%に過ぎなかった都市化率は1960年に30%を越え、1975年には47%、ついには1990年に73%、2005年には81%に達した。最近は都市での生活に嫌気をさした人たちが農村に帰るUターン現象が起きたりもするが、このような現象が都市化の急激な進展を阻むほどには至っていない。都市化現象は、都市への移住により生じる現象ではあるが、一方で都市の拡大により生じるものでもあるからだ。
都市化の進行は農家人口の減少に繋がった。農家人口は1967年に1600万名であったが、産業化が急激に進められた1970年代以降、急激に減少した。都市人口の比重が1960年全体人口の28%から1971年に41%、そして再び1990年に74%へと急激に増加した。1970年に始まったセマウル運動で電気の普及拡大が進み、全体で村の20%のみ供給されていた電気が1978年には98%に拡大されたが、これもまた都市居住民の激増を食い止めるには至らなかった。
都市人口の比重の増加は、乗用車保有台数の画期的な増加をもたらした。1万世帯あたりの乗用車保有台数は1955年に10台未満であったが、1980年に100台を超過、1990年に1000台、そしてついに2005年以降には10000台を越えた。これは1世帯あたり1台以上の乗用車を保有していることを指し示すものである。こうした急激な乗用車保有台数の増加は、1975年以降、本格的に乗用車が生産され、1980年代にガソリンの値段が下落、1970年に京釜高速道路が竣工し、全国の高速道路網が急速に拡充されたからである。

中産層
以上のような急速な産業社会への転換は、韓国人に何不自由ない生活を提供し、自らを中産層と規定する人口を拡散させた。自らを中産層と規定する人々は1960年に全体人口の20.5%に過ぎなかったが、1980年に40.3%と二倍に増加し、2000年には53%に達した。中産層の意識の拡散は、韓国社会の急速な民主化に重要ともいえる社会的基盤を整備するものであった。2009年の中産層の比率は66.7%である。

高齢化と社会的疎外
急激な社会変化は、価値観と生活習慣における変化を伴った。医療が発達し、質の高い生き方を追求する風潮が高まるなか、韓国社会は急激に高齢化しており、多くの人が隠退後の生活に多くの関心を向けるようになった。平均寿命が1960年52.4歳から1987年70歳、2005年には79歳、2007年には79.4歳に達するようになり、また17歳の青少年の平均身長も1965年163.7cmから1987年169.5cmへと6cmほど伸びた。2007年文化体育観光部が実施した国民体力実態調査によると19~24歳の青少年の身長が男子平均175.0cm、女子平均161.9cmであった。これは医師一人あたりの人口数が1218名と、1965年(3.066名)に比べ50%以上減り、上水道の普及率が17.1%(1965年)から70%(1987年)へと増加するなど、衛生状態が良くなったためでもある。高齢化指数(14歳までの幼少年層の人口に対比をした64歳以上の老年層人口比率)は、1960年7%から1990年20%、2000年35%、2005年50%、2009年63.5%と急速に増加した。反面、合計出生率(女性一人が一生の間に産む子供の数)は、家族計画が実施される1970年の時点で4.5名であったのに対し、2005年には1.2名と世界で最も低い国家の一つとなった。
急激な高齢化に直面しているが、価値観の変化により、独身や夫婦だけで構成された世帯が全体の21.2%と激増(1960年7.5%)、家族の平均規模が3名以下と減少(2005年)し、3世帯が共に暮らす大家族の比重は28.5%(1960年)から12.5%(1990年)と減ってきている。2009年現在、世帯構成員が7人以上の世帯は、全体の0.5%に過ぎなかった。これにより老人福祉が重要な社会の論点となっており、シルバー産業が新しい戦略産業となっている。
一方、産業化による社会的疎外が起こる中、宗教人口が3倍以上に激増した。1964年全体人口(2818万名)の13%(357万名)に過ぎなかった宗教人口は、1985年に43%(全体4042万名中1720万名)へと増加した。

その他の意味のある指標
また低い出生率による人口増加率の減少は、必要な労働力を海外から供給せざるを得ないという状況を作り、これにより1999年15万名であった長期滞在の外国人は2005年50万名に肉迫した。国際結婚の比率は2002年5.0%から2003年8.2%、2008年11%に増加した。また、留学生や駐韓米軍との国際結婚が多かった1980年代以前とは異なり、2000年代以降には農村の若者たちがアジアの女性と結婚するケースが激増した。彼らの間に生まれた子供たちに対して「コシアン」という新しい呼び名が誕生したり、多文化家庭における社会的関心が高まりはじめた。もはや外国人に会うことは日常的なこととなった。
しかし、外国人労働者に対する無関心や社会的問題が深刻な問題として台頭している。また、世界化に伴い韓国で活動する外国人が増えたが、外国に対する主要な関心は、開発途上国よりは先進国に集中している。よって外国に対する公共の開発援助はいまだ国民所得対比の0.1%に過ぎず、全体OECD30カ国のうち29位にとどまっている。
一方で急速な産業化と生活の変化は、韓国を2005年現在エネルギー総消費量世界7位、石油消費量世界7位に引き上げ、無分別なエネルギーの使用は環境問題を誘発している。2009年にはエネルギー総消費量世界9位、石油消費量世界9位を占めた。また、正常な資本主義的経済構造が定着しているにも関わらず、労働組合の組織率は1963年9%から1981年15%に増加し、2005年には10%以下に減少した。2008年の基準でも10.5%に過ぎない。開発途上国から脱する経済発展を遂げたが、社会福祉や労働条件に対する社会的関心は経済水準に相応し発展していないといえる。1997年の金融危機以降、社会の両極化現象が表れ高齢化社会に突入しているにも関わらず、社会福祉政策はむしろ後退しているのである。



漢江遊覧船と漢江辺の夜景



1962年経済開発計画が初めてスタートした時には1億ドルにも及ばなかった対外輸出が1971年に10億ドルを越え、1977年には100億ドル、2008年に4200億ドルに達した。一人あたりの国民所得も1977年に1000ドルを越え、1987年に3218ドルに達し、1995年には1万ドル、2007年には2万ドルを突破した。



1 現代重工業、蔚山造船所の全景
2 仁川国際空港の全景



1 三星(サムスン)電子器興半導体工場のクリーンルーム。半導体をはじめとした韓国の電子産業は飛躍的な発展を重ねてきた。
2 韓国の自動車は広く世界へと輸出され、韓国を世界第5位の自動車生産国へと押し上げた。

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